シグルイ第六巻の「何か」という表現について

シグルイ 6 (チャンピオンREDコミックス)
虎眼先生のラストの描き方で「もはや虎でも魔神でもない何か」に化したと表現されていて、この「何か」という表現が、並のマンガ家の「何か」とはその伝わり方の重みと凄みが段違いに違う。
その理由は『あの狂気異常倒錯の表現者であるシグルイの作者ですら!!あらゆる表現で僕らを熱狂させている山口貴由先生ですら!!!!表現できていない』というところが読者にも鋭利に伝わっている点が並のマンガで登場する「何か」とはわけが違う。
このあたりの読者心理を見越しているのかいないのかわからないが山口貴由先生は、この愛すべき虎眼というキャラクタの死に際に相応しい表現として、描いている作者自身の表現の範疇さえも超えた「何か」としか言い表せないという字面以上の重みを含んだ表現法を取っていると思う。ここまで効果的な「何か」はなかなか無いと思った。特にマンガという視覚的表現媒体においては。

この「何か」という表現は表現者する人間にとってはある種のギャンブルだと思う。手抜きやスキルの無さが露呈される可能性もあるし、ましてや表現することを放棄するとも捉われる。
しかし、先生が放った「何か」という一太刀は、読む者に鋭利に斬り込まれ、感嘆恐怖という血飛沫が噴出させみごと真剣勝負に勝利した。上から目線ですいません。